「何をするにもスタイルが必要なんだ。文章でも、音楽でも、絵画でも、ファッションでも、ボクシングでも——すべてに。」
そう語ったのは、1965年にジョージ・フレイジャーから「ウィージュンズの軍司令官(The Warlord of Weejuns)」の称号を授けられたマイルス・デイヴィスだった。
「俺はただ書き、ラップし、落書きし、スキャットするだけ。長いコートにプレスの効いたスラックス、仕上げは粋な帽子。ずっと煙と帽子の上にいる。どんな季節でもウィージュンズの軍司令官だ。」
そう詩うのはウィル・ストウ。
彼のスポークンワードが、Goya Gumbaniの最新アルバムの幕開けを飾る。そのアルバムのタイトルは、60年前にマイルスに贈られたのと同じ名前——「The Warlord of Weejuns」。
Goyaとその仲間たちは、マイルスやその同時代のアーティストたちと同じく、音楽と自己表現において“スタイル”を何よりも大切にしている。何が自分に合い、何が合わないのかを知り抜いているのだ。
だが、彼らの音楽活動の核心には、それを超えたもっと深い次元が存在する。
「音楽にはスピリチュアルな側面がある。それは多くのミュージシャンが共有しているものなんだ。」と、Goyaは語る。
「僕らはみんな、どこかでその精神的なつながりを感じている。」


それは、ほんの小さな瞬間に宿る。
一度それに気づけば、もう忘れられない。
ステージ上で交わされるいたずらな微笑み、スタジオで特定のサンプルが鳴った瞬間に上がる歓声、キーボード奏者が目を閉じ、その瞬間に完全に没入する姿——そのすべての中に“それ”がある。
ロンドンの音楽文化は、いつの時代も広く、多様で、その最も影響力のあるサウンドは、常に“周縁”から生まれ、地下で育まれ、反骨の精神をもつ同士によって磨かれてきた。パンク、サウンドシステム・カルチャー、パイレーツ・ラジオ——それぞれが忠実なフォロワーを持ち、都市のカルチャーそのものに消えない痕跡を刻んできた。
そして今、現代ロンドン・ジャズの音楽には、この街への深い愛情と、その豊かな音楽的遺産への敬意がはっきりと息づいている。「ロンドンの音楽シーンがクールな理由はそこにあるんだ」とGoyaは言う。「多くがコラボレーションでできている。音楽ってそういうものだろ?誰かと関わりながら、一緒に創る。いろんな背景を持つ人たちが、ひとつの“心の状態”を共有するんだ。」
その“ひとつの心”は、ジャム・セッションでも、リハーサルでも、ライブの瞬間にも息づいている。それを目撃することができるのは、まさに魅了されるような体験なのだ。




ミュージシャンではない者にとって、この創造の瞬間を目撃することは、まるで“神聖な領域”へ足を踏み入れてしまったような感覚を伴う。まるで、立ち入ってはいけない場所を覗き見しているような——。
リハーサル前の煙草をともにくゆらせる資格なんて、自分にあるのだろうか?
サウンドチェック中、ドラマーがスネアの張り具合を確かめる姿を見つめると、そこには少し背徳的な好奇心が混じる。ミネラルウォーターの銘柄(どうやら“エビアン”が一番らしい)についてのささやかな会話に口を挟むのは、大人たちのテーブルに紛れ込んだ子どものような気分だ。
それでも、Goya Gumbaniというアーティストは、そうした境界を取り払う“寛容さ”を持っている。彼が音楽の中で求めている“つながり”は、限られた者たちだけのものではない——むしろ、誰にでも開かれた共有の空間なのだ。
そのため、Jazz Cafeの控室(グリーンルーム)はいつも生命力に満ちている。
Goyaと道を交わしたクリエイターたちが集い、新しい音楽を祝福するエネルギーが渦巻いているのだ。


このシーンは、人々のために、人々自身の手で作られたものだ。
その生命力は“コミュニティの精神”によって育まれている。
スタイルと優雅さをもって、この場はあたたかく迎え入れる——自らを、より大きな何かに委ねようとする者たちを。